嫌われる勇気 嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え

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めちゃくちゃ心に突き刺さり、頭では理解できるけど、
はたしてそんなこと可能なのか?読み終えた後率直な感想です。

嫌われる勇気
自己啓発の源流「アドラー」の教え


アドラーは、私たちは「目的」に沿って
生きていると断言しています。
自分の過去を振り返ると、「目的」のための
行動があったと思います。

「いま、ここ」と言っても、30年後の人生はどうなるのだ。
とか、それでも他人の評価って大事。とか、
色々考える所はあります。
頭では理解しているつもりなのでしょうが。
おそらく今後何度も読み返すでしょう。
一朝一夕では理解しきれない濃い哲学がふんだんに詰め込まれていました。

この本の「嫌われる勇気 」は
「他者の期待を満たす為に生きる事をやめる」
「他者がするべき事、他者の課題に介入しない」など、
自分が自分として自由に生きる事は
他者から嫌われる事に繋がる…というもの。

もちろん本の内容はこんなに簡単な説明で
終わっているわけではない。
過去のトラウマと現在の不幸の関係、
人が幸せになる為の事、対人関係、劣等感とコンプレックス、
自己肯定と自己受容についてなど内容は様々。

私がこの本で学んだのは「誰かに嫌われたって気にせず」、
「主観的な貢献感」を大事にしていこう。

さらに「普通である勇気」を持ち、
「過去も未来も関係なく」「いま、ここに集中していこう」。
ということ。「普通でいいのか?」という点には当初疑問を持った。

この本に書かれていることはとてもシンプルで、
実践するべき内容は過去の自分でも未来の自分でもなく、
「いまここ」の自分を見つめましょうということだと思う。

じゃあなぜそれができないのかというと、
「人は誰しも客観的な世界に住んでいるのではなく、
自らが意味付けを施した主観的な世界に住んでいる」
と書かれているように自分の課題を見つけ、
自分とは何かを見つける作業を繰り返すたびに
自分の主観をはなれ、自我を超えた本質に近づこう!
ということなのですがこれだけ聞いて、
本質について考えるぞとは絶対に思えない。

じゃあどうやってそれを考えればいいのだと考えた所
「嫌われる勇気」に書かれている
原因論から目的論とか理想の自分を
妄想してないで健全な劣等感もてよ、
とか課題を分離しろとか、もしも◯◯って考えるのをやめろよ、
といった比較的簡単に実行できそうなことを、
まずは実践してみようかなと思う。

本文中で哲人は課題の分離はとても難しいと言っているように
上記にあげたことを実践するのだってとても難しいはずです。

なので、私はこれから始めればいいじゃないかという部分がある。
それは「嫌われる勇気」では人生を変えるためには
勇気が必要でありその勇気を持つ方法は、
他者から必要とされているという共同体感覚を持て、
というざっくりとした答えを教えてくれているのですが。
この共同体感覚とか他者貢献というのが
あまりにも謎すぎる感覚なので自分なりに答えをだしてみました。
「共同体感覚」について考えて見ました。
「人は誰しも客観的な世界に住んでいるのではなく、
自らが意味付けを施した主観的な世界に住んでいる」
つまり主観には自分の決めた、見たいと思う世界の姿が
反映されているので世界を正しくみることができないと
アドラーは言っている。

主観にこびりついている自分の見たいようにしか世界を
見ないという状況がどうやら人生を変える邪魔をしてそうだなと
仮定できそうです。

私はこの本の主題を、「いまここ」の自分を見つめる、
だと考えているのですが自分を見つめるというと独りで永遠と、
自分について考えるイメージをもつかもしれませんが、
アドラーは人生を変えるために迷ったら、
他者貢献に立ち返れと言っているので共同体感覚を
理解するにはとにかく人と横の関係を作るしか無いそのためには
他者から必要とされている貢献感をもつしかないがアドラーは、
貢献感は自分が感じればいいと言っています。

じゃあどうやって貢献感を持てばいいのかというと
その方法として私が注目したのは
「人は対人関係のなかで、私は正しいのだと
確信した瞬間に権力争いに脚を踏み入れている」
という文章です。
「自分が正しい」という思いを捨てる。
まずはここからスタートするべきじゃないかなと思います。
この自分が正しいという思いを捨てることで
自分が見たいようにしか世界を見ないことからも抜け出せるのではないかと。
で、具体的にどうするべきか、
というと弁証法で物事を考えろということです。


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